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soundsuitという作品と、体を動かすことについて

UKにいったときの映像をまとめてますが、映像の編集というのは、それを撮影したのの倍以上の時間がかかるもので、なかなか公開できません。映像の編集を通じて俺は同じ人生を生きなおしているのだ。というのはさておき、なにかをここに書きたいという気持ちはあるので、何かを書きます。たいしたことではありません。

シカゴにニック・ケイブ(バースディパーティじゃなくて)というアフリカ系のアーティストがいて、シャルル・フレジェの写真を思わせるコスチュームを「サウンドスーツ」なる名前で発表しています。

どんだけサウンドなのか、というと、服のまわりにぶらさがってるフサフサがしゃらしゃらいうのがサウンドなのかな…、とちょっと音小さいんじゃない?という気もするけど、これを着てダンスをする姿はかわいくてかっこいい。アメリカ中のリサイクルショップで材料を買ってくるらしい。




古いスピニングトップをやたらとつけたスーツがかっこいいんだけど、どう考えてもこれは音だせないよな



なおスピニングトップはちゃんと鳴らすとこういう音がします



さて、こういった、「楽器」を身に着けて踊る、というアイデアはすごく素敵だし、民族衣装でもよく見るものですが、私は子供のころから自分の体が自分がイメージしたとおりに動くようなことが一切ない(端的にいって運動音痴)なので、こういう衣装を思ったように鳴らしながら人に見せるには、演奏者というかダンサーが必要ですよね、と思いました。

この辺の自分の体と、自分の気持ちが分断されている、という気持ちや、この未来世紀にまだ体をつかわなくちゃいけないのっておかしいんじゃないの?という子供のころからの気持ちはいつまでたってもなくならないのですが、どこかで落としどころは見つかるのかしら、とこの軽やかな作品を見て(たぶんこのスーツの作者もダンスうまそうな顔してるし、この衣装を着て踊れちゃうんだろうなあという気持ちとともに)感じたり。

物と体が分断されている、さらに体と気持ちが分断されている、というのは訓練で乗り越えられることも知ってるけど、訓練って時間かかるし、的外れだと距離はどんどん開いていく。

これはスポーツや楽器の演奏では、自明の話なのですが、そこにはやっぱりすごい分断がある気がする。このあたり、ガブリエル・マルセルかメルロ・ポンティかあたりが指摘していたような気がしますが(うろ覚え)、どのあたりの著作を読むのがドンピシャなのでしょう、不勉強ですみません、どなたか教えてください。

「体と頭」の問題は、「モノと体」、たとえば楽器と演奏者のような、「UIとインタラクション」の話にコンヴァージョンしていく話でもあるので、もうちょっと真剣に考えたい。なお、音楽や作曲をしている人で、このあたりに自覚的なのは安野太郎さんのゾンビ音楽かなあと思います。(演奏見に行くといつも謎の映画を見ることになるので、たまに意図がよくわからなくなるけど…、悪口ではないです)

そして、このへんの分断って、たとえば即興演奏で次の音を出すときに、知ってる音を出すのか、知ってるけど違う音をだすのか、違う音だけど腑に落ちる音をだすのか、それともそれは単なる音でいいのか、聞いたことのない音なら何でもいいのか、お客さんにとってどう聞こえるのか、迷ってることが伝わってもいいのか、みたいな瞬間的な判断をするときも少し感じます。楽器を弾く自分の身体と「今ここ」で鳴っている音楽に立脚しながら、どう逸脱していくか、でも聞いている人を置いてきぼりにしない程度に、でもそんなことできるの?とか。
なお、この辺にものすごく自覚的な気がするのは、秋山徹次さんの演奏のような気がします(弾き語りの曲にあわせてもらったときに強くそう聞こえて感動しました)

ところで、子供にこのサウンドスーツを作らせているのがあって、のこのこ歩くしかできないような体裁なのですが、これはこれでかわいい。