学校の同級生である、荒木珠奈の作品がひさしぶりに東京都現代美術館のMOTサテライト2019で展示されるというので見に行きました。彼女の作品は、電気工作が印象的な物が多いんですが(電子工作でないところがミソ)、今回の「Caos poetico -詩的な混沌-」という作品も、空中から吊るされた光る家々はもちろん、その家々をつなげる配線自体が空中で彫刻的存在になっている、というインスタレーション。
https://tamarimo.exblog.jp/15683813/
この作品は、もともとメキシコで2005年に発表された作品ですが、ひさしぶりに見てすごくよいなあ、みんなみればいいなあ、と思ったのでなにか覚書を書いてみようと思います。彼女の作品から、まるで糸でつながるように思い起こされる作家、おそらく偶然ではなく女性作家が多いのですが、そのことにも触れます。あと根底に流れるテーマは、「空中配線」です。
さて、この「詩的な混沌」という作品は彼女がメキシコのスラムを見てインスパイアされた、という作品で、低く垂れ下がった電線に盗電の電線がからみあう、中南米のスラムの混沌を描いたものです。
とはいえ、もともと、からみあう糸がもつれて塊になる、というのは彼女の作品の特徴としてあるもので、エキジビション・スペース「遠くで永く」(2000)は巨大な真っ赤な毛糸だまから、毛糸が伸びて椅子のミニチュアにつながっていくという作品。ギャラリーブリキ星の「Evoke under a circle」(2003)という作品は、蜘蛛の糸のように広がる絹糸に、やはり椅子のミニチュアをひっかけていく作品です。
彼女が配線(または糸)の造形にこだわる人だな、ということと、そしてもしかしたら電気を配線することよりも、線の造形のほうが大事なのかな、ということに気づいたのは、昨年彼女が町田版画美術館で旧作をまとめて展示した機会に、「道」(1997)という、昔の作品の修復を手伝ったときでした。
これは腐食した銅板で作った小舟に色とりどりの豆球を下げる、という作品ですが、断線している豆球の配線を、とりあえずすべてが点灯するように、並列つなぎでつなぎなおして彼女に渡したものの、その配線は実はどうも(点灯しないというわけではなく造形的に)、間違っていたらしく展示がオープンしたあとに見にいったら、直列つなぎに配線しなおされていて、申し訳なく思った記憶があります。そのとき、配線の造形はこだわるところなんだな…、と思いました。
腐食した銅板、ということからわかるように、彼女の学部時代の専門は銅版画で、彼女が配線の造形にこだわるのは、そこがベースにになってるんじゃないかなと私は思っています。ドローイングの線を空中に展開する。つまり空中配線によるドローイング。
糸や紐を空中を渡るドローイングの線とし、インスタレーションを作る作家は非常に多く、塩田千春が代表的ですし、池内晶子もそうです。彼女たちに共通してあるのが、編み物や裁縫に近い手わざの感覚だと思うのですが、同じ手わざの感覚がありながら、荒木珠奈がユニークだとおもうのは、電気の通り道として機能する。というところにあると思っています。
これは田中敦子の「電気服」(1956)が、ドローイングとしての線であり、裁縫としての線でもあり、そしてもちろん電気をとおす線でもあるのと同じでしょう。糸は電気を通すことによって、感電をも内包した、なにか違う次元のものとして空間に存在するのです。
裁縫としての線、紐としての配線ということに自覚的だとおもうのは、メディア・アートという言葉が出てきた世代にあたる、もう少し若い世代の毛利悠子で、よい偶然だとおもうのですが、ちょうど今、現代美術館の「MOTコレクション」で展示されている彼女の作品を、荒木珠奈の作品と同時に見ることができます。
彼女の配線はからみあうことなく、空間を切り裂くようにオブジェからオブジェに渡り、オブジェ自体を制御していきます。自覚的、と書いたのは、彼女が「結び」をテーマに「おろち」(2013)という作品をつくっているからでしょう。この作品のステートメントで、彼女は衣服をつなげる糸と電気の配線を同列にあつかい、そこに電気という見えない力が流れることの意味について触れています。
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…ここまで書いたら疲れたのと、長くなりそうなので、残りは次回に。
続きは、昨年韓国で出会った、ルーマニア生まれの空中配線作家、Ioana vreme moserそして、80年代にうごかないながら、空中配線を作品としようとした三上晴子に触れておしまいにしようと思います
というわけで(いつになるかわかりませんが)続く