タブッキが亡くなっていたそうです。とても好きな作家でした。追悼、というほどではないのですが、いつかどこかに公開しておこうとおもってた文章をアップします。これは、以前、虹釜さんの輪講で「カレーについての本の書評」というお題を出されたときに書いた文章でした。「カレー」が登場しないにもかかわらず、インドだからカレーだろう、と勝手に書いた文章です。
ところで「インド夜想曲」って、筒井康隆の「脱走と追跡のサンバ」に構造がよくにてるんですよね。
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「インド夜想曲 アントニオ•タブッキ」 2010/05/06
この文章は正確には「カレーに関する本の書評」ではない。私が取り上げるこの物語の
なかで、「カレー」と呼ばれる名前の食べ物は登場しないが、その舞台と描写からカレー
と見なしてよいと思う。ゆえに、今回の私の文章ではこの物語に登場する食事をカレーと
限定した上で、「カレーを使った物語の読み解き」を行おうと考えている。
イタリアの小説家、アントニオ•タブッキによるこの中編は、ヨーロッパ人が描いた、幻
想の旅行記だ。いや、正確にいえば幻想はない。錯綜するレトリックはあるが、幻想へと
突然跳躍するような、非現実的は事柄はいっさい起こらない。
インドで失踪したポルトガル人の友人を探し、また職業上必要な資料を得るためにインド
を旅する男性が主人公だ。彼は旅先でさまざまな人と出会い、そして「かかわらない」。あ
くまでも異教徒のヨーロッパ人として慇懃に振る舞い、インド人とその場所がみせるつかの
間の幻想に立ち会う。彼はインドを旅しながら、インドにはいない。そのどこにもいなさ加
減から、本人そのものの幻想性があらわになっていく。
「インドで失踪する人はたくさんいます。インドはそのためにあるような国です」と、イ
ンドに住む登場人物のひとりに言わせているが、インドそのものよりも、さまよう主人公の
存在そのものがあやうく、幻想的だ。このことについては、物語中盤に登場する、これまた、
非現実的な兄弟による占いによって明らかにされる。だが、この広いインドを、ほとんど手
がかりがないなかで人を探す主人公の足取りを彩り、人間の幻想性の輪郭を描くのは、人と
の出会いの物語ではなく、インド各地のホテルで食べる食事だ。
ボンベイ、マドラス、ゴアの三都市を旅するこの物語で、主人公は毎晩違うホテルに泊ま
る。「ボンベイにくる観光客にはもっとも薦められない」と描かれたホテルにおける、ライ
スと魚料理とビールによる貧相な食事。マドラスで最も豪華とされるホテルで食べる「貧乏
人に変装した貴公子だったら食べるに違いないと思われる豪奢な食事」。そしてこの本の中
でもっとも何も起こらず、平凡な(かつ快適ではない)ホテルでのインド式の食事は、物語中
もっとも優雅な描かれかたをされる。邦訳にして1ページにもわたるその文章を抜粋しよう。
「ロブスターほどもある大きな海老とマンゴーのケーキを食べ、紅茶と、シナモンの味のす
るワインのようなものを飲んだ。全部がわずか3000リラに相当する値段だったのに、心が
なごんだ。パティオはヴェランダにかこまれていて、そのひとつひとつが部屋につながって
いた。奥のテーブルでインド人の家族が食事をしていた。僕のテーブルのとなりには、年
齢のさだかでない、おとろえた美しさのある、ブロンドの婦人がすわっていた。インドふう
に、三本の指で米をきっちり丸めては、ソースにひたして食べていた。イギリス人ではない
かと思ったら、やはりそうだった。ごくたまにであったが、うつけたような目つきになるこ
とがあった。そのあと、僕にある話をしてくれたが、ここの記すほどのこととは思えない。
不機嫌なあまりに見た、ただの夢だったかもしれない。いずれにせよ、ホテル•スアリでは
薔薇色の夢は見られない」
なにも起こらないが、なにも起こらないことでかえって幻想色を強める。このインド風に
ライスを食べるイギリス人の婦人がなぜゴアにいるのか。うつけたような目つきとは何か。
彼女がした話とは何か。それはまったくこの物語には描かれない。ただそこにいて、出会っ
ただけである。だが、ここに登場する、インド風にきっちりとライスを丸めて食べる婦人に
ついては、1ページにも渡るこの食事の描写とともに、読者の印象に残る描写となっている。
作者がなにごともないように描く食事のシーンが、実は物語に大きく影響を与えていると
読者にわかるのは、最後から2番目に泊まるホテルでの食事のシーンだ。主人公は、旅費が
つきているにもかかわらず、自分が探している人物の手がかりを求めて、高価なワインを給
仕長にオーダーする。そのことで、物語はクライマックスに突入する。
ご丁寧にも「インドではワインが高価だ。ほとんどすべて、ヨーロッパからの輸入品で
ある」と物語中で説明されているのは偶然ではない。インド料理ではないものを注文するこ
とによって、主人公は物語を離脱する努力をしはじめるのだ。
物語の中で通奏低音のように描かれていた、「キリスト教文化としてのヨーロッパ」と、
「さまざまな異教とヒンズー教が織りなすインド」の比較が、非常に高価なワインを飲むこ
とで物語の表面に現れるようになっていく。そのワインから導かれた給仕長のアドバイスに
よって、主人公は最後のホテルへとたどり着き、そして合わせ鏡のような追跡の物語を収束
させる。
最後のホテルのテラスで、インド最後の食事を取る、主人公と旅の道ずれとなったヨーロッ
パ人女性のカメラマン。二人の親密さは、レンズの光が収斂するように、極小まで近づくよう
に描かれるが、主人公が物語の種あかしをするにつれ、物語を物語る視点は状況を俯瞰するよ
うに極大へと移動する。ふたりは、女性が撮影した写真集の話をするが、この写真集のタイト
ルが物語のすべてを一言で言い表しているといっても過言ではない。
「アンソロジー(抜粋集)にはご用心」
主人公が食事の代金を払おうとすると「食事はただ、だそうです。だれかここのお客が僕た
ちにご馳走してくれたって。名はふせておきたいそうです」ということになる。ふたりの食事
の支払いが、いるのかいないのかわからない人物にゆだねられ、料理をしているふたりの緊張が
一気に解き放たれる。極小まで近づいた物語が、食事の終わりとともに一気に解き放たれ、俯
瞰の位置へと移動する。ご丁寧にも、最後に主人公は解説する。
「ほんとうです。あなたの写真と似たようなことかもしれない。引き伸ばすと、コンテクストが
本物でなくなる。なにごとも距離を置いて見なければいけない。アンソロジー(抜粋集)にはご
用心」。
目立たぬよう挿入された、これらの食事の描写が重なっていくにつれ、物語の描写が物語その
ものを解き放つ瞬間を読者は味わうことができる。三本指でまるめた米が凝縮するような、イン
ドの濃密さから、欧州から輸入されたワインでもたらされる開放感へ。
ここで私は確信する。この物語がかもしだす幻想の演出は、インド料理、すなわちカレーを用
いることでしかありえないであろう、ということを。
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